静岡市 愛情と心の問題 心理カウンセリング

プロフィール

万年筆

 

カウンセリングルームmika代表
ヘッド 美佳

 

 

経歴

 

1962年

1月2日生まれ 静岡県静岡市出身

・入退院を繰り返すアルコール依存症の父と一家を支える母のもとで育つ

・両親が人間関係のお手本となることでアダルトチルドレンの土台が築かれる

 

1983年(21歳)

・病気により母他界

 

1984年(22歳)

・母に続いて父も他界

・両親を失ったさみしさから、うつと恋愛依存に陥る

 

1986年(24歳)

・恋愛の苦しみで自殺未遂

 

1989年(27歳)

・友人を通じて知り合った男性と結婚

 

1994年(32歳)

・夫の国へ移住

・うつになり精神病棟に強制入院

 

1996年(34歳)

・うつ状態が回復し家族そろって帰国

 

2011年(49歳)

・別居(家族崩壊)

・カウンセリングに通い始める

・自分を見つめ直すため心理学の勉強を始める

 

2015年(53歳)

・離婚
(仕事上、旧姓に戻さず夫の姓を使用)

・職場や知り合いから個人的に恋愛相談を受けることが多くなる

 

2016年(54歳)

・産業カウンセラー資格取得

・恋愛専門のカウンセラーとして本格的に活動開始

・恋愛塾の塾長と呼ばれるようになる

 

2017年(55歳)

・カウンセリングルーム開設

・クライアントと向き合う日々の中、自身も理想のパートナーと出逢う

 

2018年(56歳)

・恋愛問題には親子の関係が深くかかわっていると実感し、家族問題を含めた愛情専門カウンセリングを開始

 

 

プロフィール詳細

 

ここから先は、もう少し私のことを詳しくお伝えします。

 

そもそも、なぜ私がカウンセラーという職業に就いたのか、どのようにして苦境から脱し、今は満たされた気持ちで毎日を過ごせるようになったかなどについてです。

 

愛と人生につらさを感じていらっしゃる方々に、何らかの形で道しるべとなればと思い、私の過去を振り返って書きました。

 

どうぞ、お時間を作ってお読みください。

 

 

■どこまでも暗い子ども時代

 

物心ついたときの私と母の生活は、アルコール依存症の父を中心に回っていました。

 

毎晩あびるようにお酒を飲み、大声を出しながら物にあたり散らしてうっぷんを晴らす父は、私にとって苦痛を感じさせる存在。

 

夜になると父と母は必ず喧嘩を始め、小学生の私が泣きながら「ケンカやめて…」と頼んでも、ふたりの言い争いは止まりません。

 

しかたなく自分の部屋に逃げ込み、父の怒鳴り声やお皿の割れる音がなくなるまで膝を抱えてガマンしました。

 

静かになるのは、父が酔いつぶれたサイン。私はリビングに戻り、母とふたりで酔いつぶれた父を寝室まで運び、父がめちゃくちゃにした部屋を片付けるのが日課でした。

 

私は典型的なアダルトチルドレンです。

 

 

■父親の影響をまともに受ける

 

父親は弱くて暴れる。これが私の男性観でした。健康的な恋愛や結婚のイメージがまったくわからず、どの家でもこんな感じかなと幼心に思ったものです。

 

ところが父には、捨てられた子猫をそっと胸に抱いて涙ぐんだり、草花を大切にしたりするような慈しみの心もありました。

 

また、母とは喧嘩をする父でしたが、なぜか私に対して一度も怒ったことがないのです。

 

私が幼稚園の頃、寒さで手がかじかむような夜になると、父は布団の中で冷たくなった私の足先を温めてくれ、眠りにつくまでキツネやタヌキの昔話をしてくれました。

 

そのときばかりは父のお酒の匂いも気にならず、私はもっともっとと父に昔話をせがんだものです。

 

男性は暴れるけれど、やさしい一面もある。私が父の世話をしたように男性は「支えて」「守る」存在である。

 

そして「どんなに困っても、男性には頼れない」

 

こうして私独自の考え方が、知らず知らずのうちにできあがりました。

 

その考え方のクセが大人になってからの愛情問題に大きくかかわるなど、当時の私には想像つきません。

 

気づいたのは、50歳を過ぎてからでした。

 

 

■両親とのお別れ

 

私が21歳のときに、自分のことがいつも後回しだった母は仕事に追われて病気になり、入院してたった2ヶ月でこの世から消えてしまいました。

 

大好きな母がワガママな父の看病と仕事に追われて死んでしまった。そのショックで、私は父を毛嫌いするようになりました。

 

ついにその父もお酒で体が完全に蝕まれ、ある日の朝、母の後を追うように布団の中で冷たくなっていました。

 

母を死なせたのは父のせい、私が暗いのも父のせいと父を憎んでいましたが、ひとりっ子だった私には家族を失った悲しみが襲ってきたのです。

 

夕方になると母が仕事から帰ってくるのではないかと思い、どうして私ばかりがこんな目に遭うのか、神様がいるのなら何て意地が悪いのだろうと恨みました。

 

朝起きると両親を思い出し、食べることもままならず、生きているのが精一杯な状態。

 

このときから私のうつが始まりました。

 

 

■恋愛しても失敗ばかり

 

ぐちゃぐちゃな気持ちをまぎわらすため、私は少しずつお酒と恋愛に溺れるようになっていきました。

 

20代で強く心を惹かれた男性は、社会的にはイマイチでいつも支えてあげたくなるような人や、私の他に特定の女性がいる人ばかり。

 

つきあってもいない男性からお金をせびられ車を貸してと言われても、好きな人のためなら…と大して疑問も持たず言いなりでした。好きな男性を支えることが愛される証だと思い込んでいたのです。

 

仕事中でも好きな人のことばかりが頭に浮かんでいる状態で、恋愛依存に陥っていました。

 

寂しい。愛されたい。でも、何をしても誰も私を愛してくれない。私を守ってくれる人は一体どこにいるの?

 

空っぽな心を抱えたまま、なんとかおつきあいできた男性から別れを告げられたときには、この世からいなくなりたいと思い自殺未遂をしました。

 

 

■幸せな結婚。でも……

 

荒れまくっていた私が落ち着き始めた頃、真面目な男性と知り合いました。それが元の夫です。

 

やっと私にも家族ができました。子どもも生まれて、ますます家族らしい生活ができたのでうれしくてたまりませんでした。

 

ところが結婚生活は、楽しさばかりではなかったのです。移住先の国で再びうつ状態になった私は、毎日涙が止まらず起き上がれなくなりました。

 

夫が家に医者を呼ぶと私はうつと診断され、その場で精神病棟に強制入院させられました。

 

退院してからも、私の“家族への固執”は止まりません。夫と一緒に生活したくないと思いながらも、ひとりになるのが怖かったのです。

 

愛されていると思いたい気持ちと、これは愛ではないと思う気持ちがクルクルと入れかわり、混乱がひどくなっていきました。

 

でも、深く考えるのが怖い。とにかくなんとかやり過ごして今日という日が終わればいい。そんな思いで日々が過ぎていきました。

 

長男を出産し、うつ状態が落ち着いた頃、夫の仕事の都合で日本に帰ってきました。私の結婚は失敗した…と何度も考えましたが、すべてを精算して自分でなんとかする力などありません。

 

あえて自分自身と向き合いたくなかったのが本音です。経済多的な自立もできなければ、精神的な自立もできなかったのです。

 

それは、暴れる父の大声と両親の喧嘩をやり過ごすことで身についてしまった「私独自の思考や行動のパターン」が原因でした。

 

①嫌なことが起きたら嵐が過ぎ去るまでじっとしている。

②考えると苦しくなるから嫌なことはなかったことにする。

③どんなにがんばっても私の周りは変わらないから流される。

 

幼い頃から染みついた考えは、ずっと続いていたのです。

 

泣いてお願いしても両親は喧嘩を止めてくれなかったように、どうせ私の願いなど誰に相談しても受け入れてもらえないに決まっている。困ったことが起きても誰にも頼れない。

 

そんな私独自の思い込みができあがっていたことに気がつきませんでした。私にとっては、そう考えるのがごく普通のことだったのです。

 

元夫との暮らしは何ひとつ不自由のない生活でしたが、本当の自分に目を向けないことに限界がきて、ついに私の心が悲鳴をあげました。

 

急に叫び出したり過呼吸になったりを繰り返す毎日が襲ってきたのです。子どもたちも、そんな状況では勉強どころではありません。

 

中学生の息子はしだいに無口になり部屋に閉じこもり、高校生の娘も精神的に追い込まれるようになりました。

 

 

■本来の自分を取り戻すためカウンセリングを受ける

 

これ以上、自分に嘘をつくのは無理だろうと思った時期から、心理カウンセリングに通い始めました。

 

初回のカウンセリングで「目の前のクッションを自分だと思って声をかけてください」と言われ、「これまでよくがんばったね…」と私自身に声をかけたとたんに、張りつめていたものが壊れました。

 

自信がなくてずっと流されてきた私(クッション)をぎゅっと抱きしめると、幼い頃からその日まで、必死で自分を抑えてきたことが次々と思い出され、涙が止まりません。

 

これがゲシュタルトセラピーとの出逢いです。心理カウンセリングと出逢って、初めて私は自分の心の中をのぞくことができたのです。

 

その後は定期的にカウンセリングに通い、少しずつ自分を取り戻していくと同時に、カウンセラーという仕事に憧れるようになりました。

 

でもそのときは、まさか私が本当にカウンセラーになれるとは思ってもみませんでした。

 

 

■人生初めての決断

 

2011年の東日本大震災の直後、私は家を出る決心をしました。

 

それは、夫と子どもたちを送り出したある日の朝のこと。

 

一度ぐらいは自分で人生を歩まないと、何のために生きているのかわからない…。子どもたちのためにもこの家を出ないと…。

 

不安と怖さで震えながら何時間も考えたのです。ふと気がついたときには、涙が止まって部屋の中は暗くなっていました。

 

そのとき、ずっと流された人生を送ってきた私が自分の人生を選択しようと思い、初めての決断をしました。

 

大震災は、多くの人の命が失われたショックとともに、自分がいつこの世からいなくなるかわからないと思う出来事。

 

また、いつか私も心から愛し合える人と人生を歩みたいと痛感する出来事でもありました。

 

ところが家を出るといっても、夫の願いで49歳まで18年間も専業主婦をしていた私には、社会経験などゼロ。

 

なんとか知り合いのつてで紹介してもらった仕事と、もうひとつ仕事を見つけて生活の基盤を作り、夫が仕事で家にいない日を狙って数々の思い出がある家を出ました。

 

引っ越し先は上の階の音が響くような古いアパートでしたが、自分の力で新しい生活がスタートできたことにうれしさがこみあげてきました。

 

これが私にとって人生の第一の転機でした。「私だって流されないで生きていくこともできるんだ」と自信を持ったのです。

 

このとき子どもたちは、高校と大学の受験を半年後に控えていました。

 

 

■また、暗いトンネルをとぼとぼ歩く

 

夫から離れてやっとぐっすりと眠れると思ったのに、今度は外を歩くたびに幸せそうな家族が目に入ってきて落ち込む日々が続きます。

 

1日の食費は親子3人で500円。みじめという言葉がぴったりな生活でした。娘が近くのマーケットで買ってきてくれたメザシやしなびたホウレン草を見ると、情けなさと申し訳なさで涙をこらえるのがやっとでした。

 

また、慣れない仕事でミスを連発するたびに、私には誰も支えてくれる人はいないのだと悲しくなり、子どもたちにわからないように布団の中で声を殺して泣きました。

 

出口のない真っ暗なトンネルの中をとぼとぼと歩いているようで、生きているのがつらいと何度も何度も思いました。

 

そんな私の唯一の楽しみは、心理学の本を図書館から借りること。子どもたちの学費を考えると自由になるお金がなかったので、恋愛依存症の本を丸写ししながら、自分の人生に起きたことを理解する作業を始めました。

 

 

■価値観がひっくり返った人生の転機

 

かつて両親と暮らしていた古い家が空き、そこに戻るのをきっかけに仕事を変えたのが第二の転機となりました。

 

1年だけの契約でしたが、特別支援学校の職場開拓員として、軽度の知的障害のある学生たちの実習や就職を企業にお願いする仕事に就いたのです。

 

そんなある日、卒業生が在校生に向けて仕事の話をする時間がありました。幸運なことに、普段は外回りの仕事をしていた私も卒業生の話を聞く機会に恵まれました。

 

そのときのショックは今でも忘れられません。

 

卒業生は「自分の仕事が大好きです!」と大きな声で発表したのです。障害がなければ、取るに足らないような仕事かもしれません。

 

でも、彼の自信に満ちあふれた顔を見て「私は社会人として負けた…」と涙が出るほど感情がゆさぶられました。そして私も、誇りが持てる大好きな仕事をしたいと心の底から思ったのです。

 

「仕事は、お金を得るために仕方なくこなすもの」から「仕事は、自分の可能性を広げられるもの」へと価値観が逆転しました。

 

それからは、夜家で泣くことをやめました。

 

いつかカウンセラーになりたい、自分のつらかった経験をひとりでも多くの女性に手渡しできれば…と強い想いが湧いてきたのです。

 

 

■恋愛はうつを治す力がある

 

次の仕事は精神障害者の直接支援の仕事に就き、そこで出逢った女性とのやり取りが、愛情をテーマとしたカウンセラーとしての出発点となりました。

 

これが第三の転機です。

 

精神障害のある女性は責任感があり聡明で、忙しい私のサポートをしてくれるほど気が利く存在。でも、彼との関係や職場の人間関係で悩んでいて、自殺したいと口にしはじめたのです。

 

私は、何とかして彼女に幸せな恋愛をしてほしいと思い「プライベートな相談に乗るよ」と声をかけると、彼女は自宅で書いたイラスト入りの恋愛日記を見せてくれました。

 

彼女の「自分に自信がない」「男性から愛される自信もない」といった内容の日記に、昼休みに私がコメントを返す。そんな交換日記のようなやり取りが毎日続きました。

 

すると交換日記の効果なのか、彼女は少しずつ明るくなっていきました。

 

「ヘッドさん、恋愛は主体性が大事なんですか?」「私の望むものは何なのか、まだわかりません」と、やりとりが進むうちに彼女は明るさを取り戻し、自殺願望はなくなっていきました。

 

うっすらとメイクをして、それまで履いたことがないと言っていたスカートも身にまとい、彼だけが人生のすべてではない、自分の時間を楽しみたい。

 

こんな具合に少しずつ彼女が変化していくと彼との関係も改善され、ときには彼を振り回すようにもなりました。

 

このとき私は、恋愛はうつを治す効果があり、人生を大きく変える力もある大切なものだと実感したのです。

 

 

■夢に向かって

 

たまに襲ってくる落ち込み感から完全に抜け出すために、私は産業カウンセラー養成講座に通いはじめました。本格的にカウンセラーになるため猛勉強の始まりです。

 

養成講座では学べなかったものの、私にとって深い関心があった「愛情飢餓」や「孤独感」「恋愛依存」を勉強したかったので、通勤時間のバスの中や自宅で過ごす空き時間は、すべて本を読む時間に当てました。

 

そして、自分の経験と照らし合わせながらノートにまとめていったのが、現在カウンセリングで使用しているオリジナルシートの一部です。

 

カウンセラーに憧れたときからすでに4年が過ぎていました。

 

年齢的に新しいことをやるのは無理かもしれない…。本当にカウンセラーになれるのかな?すでに世の中にはカウンセラーがたくさんいて、とても私の入る余地などない…。

 

何度も不安が襲ってきましたが、弱気になるたびに「自分の仕事が大好きです!」と言った男の子の顔を思い出しました。

 

きっと私の経験を渡せる人がいるに違いない、その人たちに出逢うまでは頑張ろう、自分が納得いく生き方をしよう。

 

そう自分を励ましながらカウンセラーになることだけを考えるようにし、精神的な自立のきっかけとなったゲシュタルトセラピーを勉強するため、東京にも通いはじめました。

 

寝ても覚めてもカウンセリングのことで頭がいっぱいで、恋愛に依存していた頃がウソのように変化していきました。

 

知り合った人たちに頭を下げてカウンリングの練習をさせてもらい、東京で学んだ技法は自宅に戻ってから椅子をクライアントに見立て、ひとり二役で練習をしてカウンセリングの感覚を身につけていきました。

 

 

■恋愛心理カウンセラー誕生

 

心理の勉強と並行して私自身の恋愛観をしっかりとしたものにしたく、恋愛についても勉強を重ねていきました。心が満たされる恋愛はどんなものかを探求したのです。

 

その知識を周囲の女性たちに話していきました。すると、かつては頼み込んでお願いしていたカウンセリングに、お金を払って受けたいと言ってくださる方が増えてきました。

 

相談に乗った方から「恋愛の話は、公共機関のカウンセリングや病院ではとても話せない。ミカさんだから話せる」と言われたことをきっかけに、カウンセラーとして独立するときが来たと感じました。

 

民間企業に属して、メンタル的な問題を抱えた方々の職場復帰に携わるカウンセラーになるつもりだったので、恋愛問題専門のカウンセラーに抵抗もありました。

 

でも、愛情の問題は親子関係に起因し、自分に対する自信や結婚生活を左右する人生の核。

 

私らしく仕事ができると思えたので、精神障害者支援の仕事を辞め自宅でカウンセリングルームを開きました。

 

※2018年からは、恋愛にまつわる親子問題や DV・モラハラ・うつ・虐待・依存 に関する相談も始めました。ご相談者の愛情の問題は、世代の負の連鎖で起こることが多いからです。

 

 

■新たな出逢い

 

起業して仕事に没頭する日々が続く中で出逢ったのが現在のパートナーです。

 

愛をテーマとした心理カウンセラーの私は、男性から色メガネで見られることもあります。「よく恋愛専門のカウンセラーになどなりますね」「勇気ありますねぇ」とからかわれたり、笑われたりもします。

 

きっと彼も私の職業を知ったら「恋愛の経験がとても豊富で奔放な人」と思うだろうなと、何も期待しないで接していました。

 

でも彼は、他の男性と違いました。

 

私は、多くの男性から言い寄られる女性を増やしたいのではなく、心理的な問題で恋愛がままならない女性に、たったひとりでいいからパートナーと出逢って生涯幸せになってもらいたい。

 

そんな想いでカウンセラーをしていると彼に伝えると、私の仕事や夢を応援してくれたのです。

 

私にとって仕事はとても大事。特に今は仕事を優先したいから、会えないことも多い。ましてや、いきなり親密な仲になるのは抵抗がある。

 

そんな自己中ともとれる発言にも「ミカさんらしくしていればいいよ」「ただ、あまりにも仕事に没頭しすぎると身体によくないから、ときには気分転換にふたりで自然の中に出かけよう」と提案してくれたのです。

 

 

私は、私のままでいいの…?

 

 

■私は、私らしく生きたい。

 

うつや恋愛依存から完全に抜け出すために、何十回とカウンセリングに通いながら見つけた、たった一つの答え

 

私は、私らしく生きたい。

 

それを好きになった人から初めて言われたのです。しばらくの間、ポカンとしてしまいました。

 

そして、胸の中に温かいものが波のように押し寄せてきました。

 

私の存在そのものを素敵だと肯定してくれる彼は、私の男性観をことごとくひっくり返してくれます。

 

彼は父のように暴れない。

彼は私を支えて守ってくれる存在。

困ったときには頼ってもよい存在。

 

また、不思議なことに彼のやさしさは、大嫌いだった父が私にときおり見せたやさしさと同じだと気がつきました。

 

私は、お酒を飲まない理想の父親から愛されたかった。でも、父は父なりに私のことをとても愛してくれたのだと、初めて心から納得できたのです。

 

あれほど虚しかった私の心はいつの間にか父とつながり、彼の支えもあって、深く満たされるようになりました。

 

 

■両親から渡されたもの

 

パートナーから「ミカさんには、闇夜をひっそりと照らす月の明るさがある」と言われたことがあります。

 

もしそれが本当ならば、不器用な父のやさしさと母の明るさが、私の中で生き続けているかもしれません。

 

幼いときに膝を抱えて、父と母の喧嘩が止むまでじっと待ち続けた子ども部屋が私のカウンセリングルームです。

 

その部屋で、両親から渡されたものを悩んでいる方々へお渡しするのが私の天職だと思いながら、カウンセリングを続けています。

 

私のカウンセリングテーマは愛と人生。それには、人と人の絆や親子間のつながり、そして「ありのままの自分自身を受け入れる愛」も含まれています。

 

愛情問題には、幼少期からの親子問題が大きくかかわっています。あなたの父親か母親が不適切なメッセージをあなたに与えてしまい、愛情のやり取りが上手くいかなくなってしまったのです。

 

その父親や母親もまた、幼少期につらい経験があったことでしょう。なぜなら、愛情問題は世代から世代へと連鎖していくからです。

 

もしもあなたが「大好きな人と一生幸せになりたい。でも思うようにならない」と感じるのであれば、私と一緒に乗り越えてみませんか?

 

あなたの大切な人に愛情を与えたり受け取ったりすることが自然とできるように、今の私が持っているすべての知識とセラピーで全力で寄り添います。

 

また私は、カウンセラーとしてだけでなく、同じ時代を生きている友人として、あなたと時間を共にしたいと思っています。

 

友達。家族。そしてパートナー。あなたの大好きな人は誰ですか?

 

あなたが自然体でいられて、大好きな人たちと一生幸せになってくださるのが私の願いです。

 

 

ここに至るまで、私と出逢い多くの気づきを与えてくださった方々

 

私の小さなカウンセリングルームへ足を運んでくださる方々

 

そして、最後までこのプロフィールを読んでくださったあなたに

 

心からの感謝を込めて 2017年12月

ヘッド美佳

 

■私からあなたへのメッセージ

 

生きることがつらいと感じる方へ、私からメッセージがあります。

 

私の経験から、「生きることにどんな意味があるのだろう?」と思いながら書いたものです。ご自身の想いと重ねながら読んでいただくと、何かしら感じることがあるかもしれません。

 

愛と人生~生きることの意味~

Copyright© カウンセリングルームmika , 2018 All Rights Reserved.