週に3回ほど、山道や土手を散歩するのが私の日課です。
最近めっきり寒くなってきましたが、この季節には散歩道でとても可愛らしい「知り合い」に出会える楽しみがあるんですよ。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ……」
その正体は、ジョウビタキです。
今日もずっと、愛らしい声が近くで聞こえていました。
ジョウビタキは渡り鳥。 日に日に暖かくなってくる春を迎えると、だんだん声が聞こえなくなり、あの綺麗なオレンジと灰色に白いポツン模様の姿も見られなくなります。
以前の私は、春が来るたび寂しい気持ちで山を歩いていました。
「ああ、もう会えない。もう私の前には現れてくれないんだ……」
そんなふうに落ち込んでいたのです。
けれど、今年の春の私は違いました。
「今まで私を楽しませてくれてありがとう!」
「また会おうね」
「その時を楽しみにしてるよ~」
寂しさではなく、「秋に再び出会える未来」へと自然に気持ちがシフトするようになったのです。
「変わったね」と友人からも言われるので、自分だけが感じているのではないんだなとうれしくなります。
この感覚は、「今日の楽しさが消えてしまっても、きっとまた新しい楽しみがやってくる」という、明日や未来への“つながりの感覚”でした。
おそらく家庭に何の問題もない方には、あって当たり前の感覚です。
かつての私は、幸せな瞬間がまた訪れるということを、心の底から実感できませんでした。
それもそのはずで、私の父親はアルコール依存症。 たとえば小学校の遠足で友達と笑い転げるほど楽しい1日を過ごしても、夜になるとその楽しさはプツッと途絶えてしまいます。
毎日、夕方になると友達と別れた寂しさでしょんぼりし、「そろそろお父さんはお酒を飲み始める……」と憂鬱になり、寝る時間になれば「お父さんが暴れ出しはしないか」と心臓がドキドキしました。
「私にとって、楽しい瞬間はいつか必ずなくなる」
当時の私にとって、それが世界とのかかわり方だったのです。しかも、大人になってもその感覚が続いていることに、今の仕事をするまでは気がつききませんでした。
おそらく、状況は違っても、私と同じように『断絶の感覚』を抱えて生きてきた方々は、恋愛においても「いまこの瞬間さえ楽しければいい」という刹那的な気持ちになりやすいのではないでしょうか。
そんな私が変わることができたのは、ゲシュタルト療法との出会いがあり、自分と関わる世界の中に“ほんのりとしたあたたかさ”を求めるようになったからです。
知り合いや友たちに対しても、恋愛相手に対しても、あたたかさを感じられることが一番大事だと思ってここまできたのです。
あたたかさ。
それは、ささやかではあるけれど、私の心が落ち着いて、「次に会うときもこの人は、きっと私と楽しい時間を過ごしてくれるだろう」といった、確信……とまではいかなくても、なんとなくそう感じられる感覚。
いきなり強気の「きっと大丈夫!」ではなかったです。見えない糸をたぐり寄せるような、頼りない感じでしたが、おずおずと周囲の人たちを信頼しながらかかわっていきました。
すると、本当にささやかな幸せな気持ちが続くようになったのです。
散歩道で出会うジョウビタキから、話が大きく広がってしまいましたね(笑)。
でも、「自分は自分を取り巻く世界と、私はどのように関わっているのだろう?」 と、今の自分に気づくって、何よりも大事です。
「どのようにかかわっているか」という問いは、とてもゲシュタルト的ですが(正確には現象学という哲学)、それこそが変容への第一歩なんですよ。
難しくはありません。
「なぜ自分はこうなってしまうのか……」と想像すると、頭の中で答えを作り上げたりぐるぐるしたりして迷宮入りしてしまいますが、「どんなふうにこうなったのか」であれば、自分の身体の反応や感情に意識がいき、何かしらの発見があるんです。
さあ、また明日からもジョウビタキに会えるかな。
ミカ